菅原:お生まれはどこですか。
涌井:新潟県の十日町で、コシヒカリ農家の、稲作り農家の長男なんですよね。そして、20歳のとき、秋田県の大潟村の入植の訓練、試験受かって、そして、秋田に来たというね。
菅原:秋田に来て、その大潟村っていう、ほんとは何もなかったわけですよね。
涌井:うん。
菅原:そこは水浸しの、まだ農地にもならない所に、入植してもいいよっていう試験に受かったっていうことですか。
涌井:はい。琵琶湖に次ぐ、2番目の広さの湖を、周囲54キロの堤防で囲んで、そして、1年かけて水を出して、そして、2年目から入植を始めたんですよね。ちょっとどんと歩くと、隣に止めてある農機具が揺れるような、そういうような所にずっとやってきて、そして、1年ごとに少し表面が硬くなり、それでまた、少し表面が硬くなって、ようやく、まず農作業ができるようになった。しかし、そうはいっても、米は作れるけど、畑がなかなかできなかった。そういういろんな時代をこの40……。ちょうど41年になりますよね。
菅原:食管法っていう、戦後、お米は国の物で、みんなが平等に食べるためには、配給米じゃなきゃいけないみたいな時代ありましたよね。
涌井:われわれが自分のお米を自由に売ろうとしたときに、売らせないというさまざまな圧力受けましたけどね。
菅原:そういうものってすごい、し烈な闘いの中で、普通だったら、弱者だから……。全国の農協の人たちとか、それから、政府のやり方と真っ向から、違うやり方で売っていかなくちゃいけない理由っていうのはなんだったんですか。
涌井:借金を返さなきゃいけないね、われわれはただで土地をもらったわけじゃないから。全財産をうって、それで、家族を連れてきて、そして、その大潟村で農業をして借金を返すわけですよね。生きるためにやっていく、それしか無かったというね。
菅原:そうすると、だんだん、だんだん、米が作られ過ぎる時代になって、減反政策っていうのが……。
涌井:今もね。
菅原:今もそうですけど、あれが始まったのが……。
涌井:昭和45年でしたかね。
菅原:そのときから、自分たちの借金を返さなきゃいけないからどんどん作りたいんだけど、政府が作っちゃいけないと。そういうことのひどい矛盾を抱えながらなんとか作って、作った物を売らなければ食べていけないし、借金が返せないからっていうことで、自分たちで……。
涌井:売ろうとしたの。国は、われわれが米を売るのは、売る所があるから作るんだという、当然ですよね。そこで、今度は売らせないために、2カ月間検問して、出入りする車みんなチェックしたり、またわれわれがお米を売っている売り先の会社の社長を警察に呼んで取り調べをしたり。なぜ農民が自分の米を自由に売ることができないのかという1つの、ごく当たり前の権利を獲得するために、10年も20年もかかったっていうね。
菅原:だから、農家の人たちは、作った物は自動的に農協に納入するところまでが自分の仕事だっていうふうに思わされてずっと来て、自分で自由な値段を付けることすら権利が無いっていう時代に、ずっと今日まで続いてきたわけですよね。
涌井:これは、なんだか分からないけど、その環境にいると、ずっとそれに慣れきってしまうと、自分がそうじゃないんじゃないのということすらも発想できなくなってしまうとね。われわれは、たまたま生きるためにそうせざるを得ないから、繰り返して、繰り返して、40年繰り返してきたから、なんだか分かんないけど、とにかく前に、前にというね。
菅原:今度は市場原理ですね。
涌井:そうそう。
菅原:だから、マーケットっていう。株式市場もマーケットってよくいうけど、それって正体不明で、何考えてるか分かんないようなところを相手に、戦いを打って出るっていうとこがあるわけですね。
涌井:そう。国や県とケンカしてるうちは楽なのね、お互いに敵だからね。今は、今度、誰が敵だか、誰が味方だか分からないわけね。そういう中で、今、何をベースにするかというと、自分都合で物を考えても絶対駄目なのね。お客さま都合で物を考えることができるか、できないか。
菅原:そういう意味では女心が分かんなきゃ駄目なんだよね。
涌井:そう。そうだよねって、なかなか。
菅原:大丈夫ですか。
涌井:そこが難しい。
菅原:だって、買う人はほとんど女の人だもんね。
涌井:ほとんど女。90%、女性ですよね。