トップ > 涌井徹 さん(2009年11月8日・11月22日放送)

第2回 涌井徹さん5

(2009.11.8,11.22放送)

涌井:国は、なんとかして新しいお米の消費を作りたいということで、ことしから新規需要米というものを作って、お米で新しい消費の拡大をしてほしいっていうお願い、願いの政策、今年ありましたよね。

菅原:いろんな形で、国の方も試行錯誤しながら、どういうふうにしてお米を安定受給させるのがいいのかとか、今までは減反政策で、余るから、余るから……。そうすると、足りなくなると、急に足りないっていう、引っ繰り返したみたいな状態に……。

涌井:そこで、国は、今までは、余るから作付けをしない、野菜を作る政策だったのね。今年から、要するに、米を作ろうということに動きます。減反は選択制で、やりたい人はやってください、やりたくない人はしなくていいですよと。それから、併せて100万ヘクタール減反して500万トンのお米が取れていた分を、既存のお米商品以外の物を作ってほしいっていうことで始める。私も減反しないっていうことで、今まで悪者扱いされてきていましたけども、今、私が、お米で新しい商品を作って、ほんとの日本の農業の未来を、私が作るよと、そういう思いを持ってやって、それで、今年の春からお米の麺を作るってことに力を注いでるわけですよね。

菅原:米の麺を見せていただきましょうか。

涌井:最初は白い麺を作ったんですね。そして、飲食店とか、まず、ホテルだとか、コンビニの弁当屋さんに提案しました。すると、最初はお米の麺っていう珍しさで、面白いよねって。しかし、どんどん、どんどん、詰めていくと、小麦の麺とどこが違うのって、味、栄養価、利便性、さまざま。そうやったときに、絶対的に白米の麺が小麦を超えるものではないのね。そこで、何百人ものバイヤーと話しして、4カ月間、毎日毎日、北海道から九州まで営業やってて、そうだ、日本人は玄米、ないしはまた、発芽玄米の麺……。今まで健康に良いといわれた玄米食、発芽玄米食は、なかなか味的に多くの人はなじまなかった。しかし、麺にしたらどうなのかと思ったわけ。これも、発芽玄米の設備があったからできたの。普通の玄米では麺にならないのね。これまた、中の、夜の発芽玄米工程の、アルファ化工程が生きてきてね。それで、今度は、実は発芽玄米の麺ができたと話すると、生協から、コンビニから、学校給食、90%、発芽玄米よね、きっと面白いよって。

菅原:こっちの方が味がひと味深いんですよね。イタリア製のスパゲティでも、だんだんオーガニックになってるでしょ。だから、向こう側でも、発芽の入ったスパゲティの麺が来てますよね。そっちの方が食べ慣れるとおいしいですよね。

涌井:それで、私、今、イタリアの方で、向こうの大きな会社と輸出の計画を今組んでて、そういうのは進めてるんですよね。これは、新たなる主食としての位置付けで、本来は発芽玄米っていうのはこういう使い方があったのかなってようやく……。

菅原:これ、すごくいいですよ。なぜかっていうと、今オーガニックブームでしょ。ですから、レストランなんかでも、うちのスパゲティは全部発芽玄米のもとを使った物でやってますって。1回食べたら、これは女性の健康や、美容にすごくいいんだなってみんな思うから、抵抗ゼロですよね。

涌井:そんな感じがしますよね。

菅原:だから、これを、これからまた新しい、減反しなかった部分で作ったお米を、全部これに回していくっていう。

涌井:それで、大潟村で、540人のうち、減反しない方が300人いるのね。その人たちの米の面積分が300人で1万トンなんですよ。その1万トンをみんな麺にしちゃおうっていうことで、それで、麺の工場を今月いっぱいで完成して、それから、本格的にやっていくのね。

菅原:果敢なチャレンジ、人生の集大成ってさっきいわれましたけど、むしろ食料危機が来るこれからの方が、涌井カラーっていうものを世の中に示して、政府にも直々ご意見番としていろんな意見をどんどん吸い上げてもらうと、一番世の中に……。エコロジーの時代、それから、せっかく田んぼがあるのに使わないで草ぼうぼうにするのは、ほんとのところは正しくないですから、そういう意味では日本に食料危機が来ないようにするためのノウハウとか、今まで積み上げてきたものを、ぜひ広く伝えていただけるとうれしいと思います。頑張ってください。

涌井:ありがとう。

菅原:ありがとうございました。

涌井徹

1948年、新潟県十日町の米作り農家の長男として誕生。1967年、新潟県立十日町高校卒業。卒業後、同県立農業教育センターに専攻生として入学し、1968年、同センターを卒業。1970年、大規模な米作り農業を目指し、家族とともに秋田県の大潟村に入植。入植と同時に減反政策が始まり、メロン・ほうれん草・玉葱・小麦などの畑作農業に取り組んだが、干拓地では畑作が向かないため、米作り専業に転職。1987年、「大潟村あきたこまち生産者協会」を設立し、代表取締役に就任。現在、日本のモデル農業として誕生した大潟村で、生産・加工・販売まで手がけ、「農業発の一流食品メーカー」を目指し、日々、取り組んでいる。主な著書:「農業は有望ビジネスである」(東洋経済新報社)。